ナガサキと東海大学総長松前達郎氏
科学新聞社 発行   

松前達郎 著   「私の20世紀」
無装荷ケーブルと望星学塾
  長崎の誕生の地(p2−3)より


長崎市の原爆中心碑がある原爆公園から浦上川を挟んだ対岸に城山というところがある。1945年8月9日、プルトニウム原爆により七万人の市民とともに消滅したこの町に、いまは昔の面影はない。
その近くの平和記念公園には彫刻家の故北村西望氏による巨大な人間の像『平和祈念像』があり、その像の右手は天空を、そして左手は地平を指している。
 私はその城山町で1927年(昭和二年)に故松前重義と故のぶ(信子)の長男として生まれた。私の父が長崎郵便局の電話課に勤務していた頃であった。しかし、私に長崎の記憶はまったくない。私たち家族は一年程の滞在で長崎から東京に戻っていたからである。
 私は今年(二〇〇〇年)の夏、自分が生まれた場所がどこであったのかを確かめるため、長崎市に在往する東海大学の卒業生M君の案内で城山町を訪ねた。探訪のよりどころとなる情報の一つに、戸籍に記載された城山町一丁目十四番地という当時の地番があった。しかし、昭和二年当時の地番は現在の地番表示とは異なっていて、戸籍の地番で場所を特定することができなかった。
 場所を特定できる他の情報は、母が著書『欅と竜胆』のなかで述べている「長崎時代のこと」という次のような回想文にあった。

 《住んでいた家は大学病院近くの小高い丘にありました。(中略)あのころ浦上の一条通り、二条通り、三条通り、四条通りとあり、その四条通りに家はあったのでございます。一番高いところでとても眺めがよくて、時々山手をカトリックの服装の尼さんが通るのがみえました。(中略)あのあたりは、川をひとつこえると浦上ですから、カトリックの尼さんが岡の上の道をよく歩いていたのが、いまも目のなかに残っております。》

 手に入れた古い住宅地図には番地は記載されていなかったが、通りの名称が記載されていて、それには北一条から四条、南一条から四条までの通りがあった。母の言う四条通とは北四条か南四条か、そのことを特定するため私は両方の通りを訪ねてみた。
 その結果、南四条は浦上川のほとりの低いところにあり、北四条は小高い丘にあることがわかった。
しかも現在、北四条のその場所は城山町から分離された城栄町であり、母が述べた四条は護国神社の丘の中腹にある北四条であることがわかった。母が述べているように、そこから浦上の天主堂や平和公園が見えたのである。
 私がその城栄町(当時は城山町)で生まれた前年の秋、長崎は水害に見舞われ浦上川が氾濫した。母は汚水のなかを歩いて電話局に人を助けに行き、夏に電話交換の娘さんと海水浴に行った際に怪我をした足に菌が入って、大学病院で大手術をした。私はこの話を何回となく、私に話し聞かせていた母を思いだしていた。当時私が母のおなかのなかにいたこともあって、二十三歳の若い母にとっては大変なことであったのだと思う。
 ところで、北村西望氏の彫刻は、東京の武蔵野市の望星学塾という六十年の歴史を持つ学塾にも置かれている。その彫刻は、望星学塾を開設した故松前重義の胸像である。

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